人間主体のエンターテイメントと交換可能性
「推す」という事は対象人物のある要素について大きく好意を寄せる,と雑に考える.好意を寄せると言っても様々なので (友達としてか,頼れる親的な存在としてか,恋人にしたいか,etc), ここでは好意の種類は注目せず対象人物の要素のみに注目する.
人間は雑に分けて「内面」と「外面」を有するとして,それぞれを , , ( はそれぞれ時間と要素数) と分割する.どのくらい推せるか (Favorability Index: ) をこれらの要素の線形和でひとまず考える (非線形項の存在も否定はできないがここでは一先ず無視する):
重要なのは , 等の交差項に掛かる重みだと考える.
この重み行列は対象人物と対象人物を推す人物の2者によって極めて主観的に決定される (時間的変動すらも有り得る). 分かりやすく言えば「こんなにカッコいい人が普段は周りの人への気遣いも怠らないなんて素晴らしい」という風に この項に掛かる重みこそが,対象人物の「交換可能性」を排除すると考える.例えば 項に掛かる重みが他の重みに対してかなり支配的である場合, 項が如何にマイナスであろうと,あるいはある日突然正から負に転じたとしても (これら諸元は,主観的にも客観的にも時変量である), 実際は (哲学的ゾンビ) だったとしても関係ない.中身がどんなに入れ替わったとしてもこの項の値さえ保てていれば.
ある人間を「推す」上で,「その人間を推す必然性を産む」物は,「主観的に決定される,交差項に係る重み係数」であり,その係数こそが「対象人物の交換可能性を排他する(=推す理由を生む)」と考える.そして当然ながら,推し続ける (つまり を安定的に大きく保つ) 上では当該人物が連続的に同一である事が求められる (当該人物と推す側の人物が同じオーダーで変化して「相対的に連続性が保たれる」ケースはほぼ無いと考えられるのでここでは考慮しない).
ここで「個の認識」と「人間の連続性」に言及したい.「個を認識」する上で,「当該人物の全要素の連続性」は求められないのである (ex. ある長髪の友人が居たとして,その友人がある日突然髪をバッサリ切っても,その友人はその友人として認識可能である). では個を認識する上で何に注目しているのか.以下の仮説を考える:
Hypothesis. ある時刻 間で人間の連続性を認める (同一の個として認識する) 為の十分条件 (必要十分でない) は,二時刻間での の誤差 がある閾値 に収まっている事である:
重要なのは各要素の実質的な変化ではなく,主観的に決定される重み係数である.人間の連続性を担保する上で重要な要素は,重み行列に従って勾配が付けられていて,誤差の総和が閾値に収まる範囲であれば各要素の変化は許容される.もっと言えば,重みが小さいような要素についてはかなり大きく変化してしまっても「推し続ける上で必要な当該人物の連続性」は認められるのである.
この連続性を逆手に取ったエンターテインメントがあるだろうか.すなわち「表面的な連続性は保ちつつ,それ以外の要素が変化し続ける」ようなもの (例えば,同じ顔を保ちながらも中身は毎回別人,みたいな).これは生身の人間では難しい.というのもそんな事は基本的に有り得ないから 但し実現すれば,一つの存在が展開できるエンタメに大きな多様性が生まれるのではないか 「連続性を保つための最低限の要素の変動は抑えつつ,他の要素を大きく変化させることである種の変化球を投じる」というエンタメがあっても良いのではないか,実現できれば一種の新規性では無いのか
このコンセプトの実現を大きく容易にするのが着ぐるみ文化だと思う. の計算に用いる重み行列を,「顕現しない要素の大きな変動を許容する」ように設定して展開すれば 儲かるかは知らん